カシオ計算機と『Gショック』の事例研究
2008年9月10日
砂田好正
1.新製品『Gショック』の発売
東証一部上場企業として知られるカシオ計算機の時計事業本部がデジタルウオッチ『Gショック』を日本市場で発売したのは1983年のことである。
このウオッチ新製品は、高精度を実現すると同時に、100分の1秒単位のストップウオッチ機能、防水機能などの多機能を実現していた。それに加え最大のセールスポイントになったのが、「耐衝撃性」であった。
『Gショック』発売以前、カシオ社内のウオッチ企画開発部に、「ライターのジッポウのような頑丈なウオッチを作りたい」という企画があった。そしてそのための、開発チーム「プロジェクト・タフ」が組まれていた。そこではこのコンセプトに合った試作モデルが次々に作られていった。そして試作モデルができ上がるたびに、ビルの3階からそれを落下させ、強度を試験していった。その結果、ついに発売に耐えられるモデルが完成し、それが『Gショック』第一号となるのである。
そのモデルは、ボタンやガラス面以外はすべてウレタン樹脂でカバーされ、内部に衝撃を伝わりにくくする工夫がされていた。これは全方向カバリング構造と呼ばれる技術であった。内部のムーブメント(機械部分)が、ちょうど宙に浮くような構造になっており、そのために衝撃に強いという機能を実現していたのである。
何回もの試行錯誤によって完成した『Gショック』第一号モデルは、耐衝撃性を備えたウオッチとして、日本市場で展開されることになった。当時の新製品記者発表会の席上、担当役員が壁に強く投げつけ、集まっていた記者たちを驚かせたという逸話が残っている。それでも『Gショック』は正常に作動し、それだけの頑丈さ、すなわち「耐衝撃性」が記者たちの前で証明されたのである。
しかしカシオの技術力を駆使した『Gショック』第一号モデルは、当時の日本市場では、ほとんど受け入れられなかった。その頃の日本のウオッチ市場は、ファッション性に優れた多くのブランド製品が主流となっており、それらは薄型であることをセールスポイントにしていた。「耐衝撃性」を前面に打ち出した『Gショック』は、その機能を実現するために厚いのが特徴であり、デザイン的にもごつい感じであった。そのため、他のカシオウオッチは、一定の市場シェアを維持していたが、『Gショック』の売れ行きは、低調であった。発売当初は、カシオウオッチの全製品ラインの中では目立たない存在だったのである。そうした日本市場での低調ぶりを見てとったほとんどの業界関係者は、『Gショック』が、将来的にヒット商品になるだろうとは考えもしなかったのである。
2.コンシューマ(消費者)商品メーカーへの脱皮
カシオが、樫尾忠雄氏を筆頭にした4人兄弟によって設立されたのは、1957年のことである。それ以来、リレー計算機の技術開発に取り組んでいたが、1965年に電子式計算機(電卓)を初めて市場に投入して、電卓の専門メーカーとなった。その電卓は、当初は何十万円もする高価な機械であった。
しかしエレクトロニクス技術が進展するという技術環境下で、カシオ独自の技術力を活かした『カシオミニ』(当初の価格は12,800円)が1972年に発売された。この『カシオミニ』は、それまでの電卓の需要者であった法人でなく、個人向けの電卓としてヒット商品になった。次々に新製品が加えられ、発売してから約1年後には100万台を突破するという猛烈な売れ行きであった。当時の「答え一発、カシオミニ」というテレビCMを今でも憶えている人は多い。
しかし、電卓投入以後のカシオ計算機がすべて順調だったわけではない。計算機が電子化され、エレクトロニクス製品になったため、先陣を切ったシャープをはじめ、キヤノン、オムロン(当時の立石電機)、三洋電機、などのメーカーがこぞってこの分野に参入した。そのため競争は激烈を極め、今では当時の様子が「電卓戦争」と称されている。技術的には多機能化、薄型化、小型化が進行し、また、その高精度の電卓を量産することによる価格競争は激烈を極めた。5年を超す「電卓戦争」の結果、カシオとシャープが市場シェアを分け合うようになり、その他は市場からほぼ撤退するという経緯をたどった。
電卓で『カシオミニ』を発売したことは、カシオが事務機メーカーからコンシューマ商品(消費者商品)メーカーに脱皮したことを示していた。以前の事務機メーカーとしての商品は法人向けの供給であったのに対して、『カシオミニ』は主に個人向けの商品になったのである。それはカシオのその後の進路を決定する経営的な意思決定であった。カシオはそれとき、コンシューマ商品のメーカーになることを決意したのである。そしてそれが、カシオが商品多角化の一つとしてウオッチ分野へ参入する大きな理由となったのである。
3.カシオのウオッチ分野への参入
カシオがウオッチ分野に参入したのは、電卓メーカーとしての地位をすでに固めつつあった1974年のことである。
当時の時計業界は、服部時計店(現セイコー)を頂点として、シチズンがそれに続き、さらにはオリエントやリコー時計が既存のメーカーとして、比較的波乱の少ない業界構造を作り上げていた。しかし一方、当時の時計業界は、時計のクオーツ(水晶)化という大きな技術革新の時代を迎えていた。すなわち、それまでの機械式ぜんまい時計の精度を超えるクオーツウオッチが市場を席巻し始めていたのである。
新しく登場したクオーツウオッチは、一方でICを使ったエレクトロニクス製品としての性格をもっていた。そして、そのことはカシオが電卓で獲得してきたエレクトロニクス技術を、ウオッチ分野でも存分に発揮できることを示していた。すなわち、ウオッチがエレクトロニクス製品になったことは、エレクトロニクス技術をすでにもっていたカシオにとって商品多角化のための最適な商品であった。
またこれまでのウオッチは、アナログ式(針式)がすべてであったが、デジタル式のウオッチの商品化が可能になっていたのも大きな理由になった。デジタル式という新機軸のウオッチによって独自性を発揮できるからである。そうした理由もあって、「デジタルはカシオ」という掛け声の下、カシオはデジタルウオッチによって時計分野に参入するのである。参入以来の数年間は『カシオトロン』というブランド名で展開された。こうしたカシオの時計分野への参入は、それまで安定的に推移していた時計業界に対して、大きな波紋を広げることになるのである。
4.参入以後の価格戦略
カシオがウオッチ分野に参入した以後の時計業界は、ちょうど電卓がそうであったように、既存のセイコー、シチズンなどを巻き込んだ激烈な競争状態に入っていった。技術的にも新しい試みがされていく中で、最も顕著に表面化したのが価格(マーケティングの4要素・4Pで言えばプライス)における競争であった。
カシオは、「電卓戦争」で獲得した量産技術を駆使して、デジタルウオッチの新製品を次々に開発し、この分野でもプライスリーダーとなっていった。参入当初のデジタルウオッチの価格は、10万円近いものであったが、新製品が発売されるごとに低価格化し、2〜3年の間に1万円前後の価格にまで下がっていった。
他の時計メーカーもデジタルウオッチを発売するとともに、低価格化競争を受けて立った。業界トップのセイコーは、低価格ブランド『アルバ』を発売し、また同じくシチズンは低価格ブランド『ベガ』を発売して対抗した。セイコーやシチズンは、一方で高い販売シェアをもっていた高価格ブランドと、新しい低価格ブランドを分離することによって、日本市場全体としての市場シェアを維持・成長させるブランド戦略を採用したのである。こうした過酷な価格競争は、カシオの低価格戦略の影響だと見ることができる。それは「ウオッチ戦争」という名にふさわしいものであった。
また、価格政策としてカシオが選んだのは、例えば「メーカー希望小売価格19,800円」といった端数価格と呼ばれるものであった。その点でも既存の時計メーカーとは違う、カシオ独自の方法が採られたのである。それによって、新製品の安さを強調し、庶民性をアピールして、消費者に受け入れやすくする価格政策が採用されたのである。
5.参入以後の流通戦略
しかしカシオのデジタルウオッチによる日本市場参入には、一つの大きな障害があった。それは流通ルート(4Pで言えばプレイス)の確保という問題であった。当時の日本国内では、小売店としての時計店が大きな販売シェアを維持していた。しかしそれらの時計店は、新規参入者であるカシオには、少なくない抵抗感をもっていた。そして、セイコーやシチズンなどの既存メーカーの製品だけを扱うことに固執していた。時計店はカシオのウオッチを扱おうとせず、カシオにとっては売る場所がないという事態に直面していた。
そこでカシオでは、ます最初の小売業態として、当時アウトサイダーとして台頭していたヨドバシカメラ、さくらやなどのカメラディスカウンターを選択したのである。当時のカメラディスカウンターでは、メーカー希望小売価格から3割引という、時計業界としては過激な時計の割引販売がされ始めていた。そこにはセイコーやシチズンの製品も徐々に置かれるようになっていたのである。カシオは、そのカメラディスカウンターで販売することを、最初の流通の突破口にしようとしたのである。それがカシオの参入時における流通戦略であった。
その後の経緯を見れば分かるように、カシオウオッチが加わることによって、カメラディスカウンターでの時計販売は完全に定着していった。時計店での時計販売が低迷する中で、一方のカメラディスカウンターでの販売が拡大していき、今では大きな小売シェアを確保するまでになっている。その契機になったのが、カシオの流通戦略であり、マーケティング戦略であったのである。そしてその流通戦略があって初めて、カシオの参入が成功裏に進行することになるのである。
6.カシオデジタルウオッチの定着
マス・メディアを活用した大量の広告など、マーケティング戦略の成果もあって、カシオウオッチは徐々に消費者(市場)に認知されるようになった。そして、以前はカシオウオッチを扱うことを嫌っていたインサイダーとしての時計店の中にも、カシオウオッチを扱う店が増えていった。その結果、カシオの日本のウオッチ市場全体における市場シェアも、セイコー、シチズンに次ぐものとなり、10%前後にまで伸長するのである。
その市場シェアの確保を可能にしたのは、製品面でデジタルウオッチ分野に特化し、その分野でトップメーカーになったことが大きく寄与したと言われる。電卓戦争で電卓分野のトップメーカーになったように、デジタルウオッチ分野でもそれを達成したのである。そのことがカシオウオッチのさらなる拡販に大いに寄与したのである。
それ以後カシオは、デジタルウオッチを「腕に着ける情報機器」というコンセプトで新製品を継続的に開発していく。ストップウオッチ機能の充実、世界時計機能の搭載などで多機能化を図り、デジタルウオッチのトップメーカーの地位を確かなものにしていく。それらの新製品は、カシオの技術力が可能にしたものであり、その「技術力」をマーケティング戦略の中で訴求していったのである。
そして1980年代の初頭には、アナログウオッチや目覚まし時計などを発売し、時計の総合メーカーへと脱皮していく。社内的には、時計は電卓とほぼ同じ売上高をもつまでに成長し、カシオの扱い商品の二本柱の一方の柱に大きく育っていったのである。
7.アメリカでの『Gショック』のヒット商品化
耐衝撃性デジタルウオッチ『Gショック』が発売された1983年頃は、カシオウオッチが日本国内で一定の市場シェアを確保し、市場から評価を得て、定着していた時代である。しかし繰り返しになるが、『Gショック』に限って言えば、発売当初は、その意気込みとは違って、低調な売れ行きに推移していた。その販売に最初に火が着いたのは、実はアメリカ市場であった。
カシオをはじめ、セイコー、シチズンなどの日本の時計メーカーは、メーカーとして、その生産の8割程度を輸出に依存していた。全ての時計がクオーツ化されることによって、日本の時計メーカーはその高い技術力を誇り、世界各国に大量に輸出するようになっていたのである。機械式ぜんまい時計の時代は、スイスが時計王国を築いてきたが、それを日本メーカーが追い抜き、日本が時計王国に名乗り出た時代であった。カシオも例外ではなく、世界各国への輸出を活発に手がける中で、アメリカ市場へも働きかけを強めていた。
アメリカ市場での『Gショック』のマーケティング戦略、特に広告戦略はその耐衝撃性というコンセプトを最大限に強調するものであった。テレビCMでは、『Gショック』の完成品を、アイスホッケーのパック代わりにゴールに打たせ、それでも作動することを見せるというインパクトの強いものであった。そうした戦略が功を奏したのか、『Gショック』のアメリカ市場での販売は1983年の発売当初から好調なすべり出しを見せていた。
ところがこの全米で放映されたテレビCMに対し、あるニュース・ショーが誇大広告ではないかと横ヤリを入れてきたのである。「CMでは壊れもせずに無事だが、実際にはできないはずだ」と主張してきたのである。結局、この番組内で真偽を質す実験が行われることになった。
当時のカシオのスタッフには壊れないという確信があったが、もし仮に壊れたら、実験に使われる時計だけでなく、『Gショック』の前途はなくなってしまう。『Gショック』だけでなく、カシオウオッチ全体の信頼性を失うことになってしまう。そうした危険性をはらんだ実験であった。そして当日、スタッフが固唾を飲んで見守る中、ホーケー選手によって『Gショック』がゴールに打ち込まれた。そしてその『Gショック』は、CMでそうであったように、壊れることもなく、無事に生還を果たしたのである。
このニュース・ショーでの実験は、インパクトの強さに比例して、その訴求力は非常に高いものがあった。結果的に最高の宣伝となり、また客観性のあるPRになったのである。話題性も高くなり、それ以後、『Gショック』はアメリカの消費者に受け入れられ、大ヒットにつながっていく。実用性を重んじるアメリカ人気質にぴったりの時計であったことも、そのブームに寄与したものと見られる。
このようにして、80年代の『Gショック』は、日本市場よりもアメリカ市場を軸に展開され、アメリカでヒット商品となっていたのである。
8.日本市場でのヒット商品化
『Gショック』が日本市場で売れ出したのは、90年代に入ってからのことである。徐々に日本の若者の間に広がっていった。当初の発売から7年以上を経過していた頃である。アメリカ市場でヒット商品としてブームを起こしたことを聞きつけた日本の若者の間で、口コミで広がっていったのである。『Gショック』の機能とデザイン、そして耐衝撃性というコンセプトに共感をもった若者が、競って購買し、それを腕に付けた若者が街を闊歩するようになった。このように、日本市場での『Gショック』は、アメリカ市場でヒット商品になった後に、逆輸入品という形で広がっていった。
また、日本市場での拡大を見てとったカシオが採用したマーケティング戦略は、口コミ・マーケティングという用語にふさわしいものであった。カーマニアやオートバイに興味のある一部の若者に向けて、その専門雑誌などに広告展開をしていった。耐衝撃性という『Gショック』のコンセプトに合致する雑誌を選んで広告を打ち、プレミアム商品として『Gショック』をプレゼントするなどの販売促進戦略(4Pで言えばプロモーション)が採用されていった。それらのプロモーションによって、『Gショック』を愛好するファンを醸成していったのである。
こうした経緯の中で、『Gショック』の商品ライン(4Pで言えばプロダクト)は、新製品が次々に発売され、充実したものになっていった。ファッションとしては、ストリート・シーンに合うデザインのものが発売され、若者のストリート・ファッションとしての地位を確保することになる。また、冬季のスキー用に開発された機種や夏のビーチ用に開発された機種など、アウトドア用の『Gショック』が次々に発売されていった。こうした商品ラインの充実が『Gショック』のブームに大いに貢献することになったのである。
そうして、当初の『Gショック』は全商品ラインの一部を占めるに過ぎなかったものが、カシオの主力商品として、そのブランドを日本市場に浸透させていった。その結果、『Gショック』を愛好する若者が増え、「Gショックファン」と言ったファン層は確実に増えていった。それはヒット商品、流行商品という名にふさわしい、『Gショック』の日本市場での席巻であった。
9.リストロマン活動による組織力の強化
『Gショック』が日本でブームとなろうとする頃、1994年頃のことである。カシオの時計事業本部では、組織強化のための一つの方策が採用されようとしていた。それは、社内で「リストロマン活動」という名で呼ばれることになる、社員やスタッフを巻き込んだ社内運動であった。
この社内運動は、その当時『Gショック』を中心にしたカシオウオッチの理念を全事業本部に徹底させることを、第一義的な目的にしていた。その中心になる理念が「リストロマン」であり、腕時計にロマンを感じ、それを社内で共有化することが目的であった。社内の商品開発、デザイン、営業、宣伝、広報などの各部門が、「リストロマン」の掛け声の下に集まり、一体となって時計の販売拡大に取り組もうという主旨であった。
しかし、この「リストロマン活動」は、カシオの社内だけに止まるものではなかった。社外の販売代理店などの流通ルートに対して、またそれを販売する時計店やディスカウンターに対しても、カシオウオッチの理念や戦略を伝達し、共有化していこうという、大きな目標をもっていた。さらには、最終消費者に対して、カシオウオッチにロマンを感じてもらうことが最終的な目的になっていたのである。そうしたカシオウオッチに関係する全ての人を巻き込んでいくというのが、「リストロマン活動」の社内運動の特徴であった。
そしてまず取り組んだのが、組織改革である。それまでの時計事業本部と各地域の営業部は、本社部門を「リストロマン本部」に、東京と大阪にあった営業所を「リストロマン支店」、その他の時計営業所は「リストロマン営業所」と称するようにした。こうした組織の名称変更と組み換えは、その「リストロマン」という理念を徹底する意味で重要な組織戦略であった。またこれによって、各地域に配置されていた販売代理店(独立系の卸売店も含む)との間に、この理念と戦略を共有することを可能にしたのである。
この「リストロマン活動」は、『Gショック』を筆頭にしたカシオウオッチの、日本市場での市場シェアの拡大を最終的な目標にしていた。ウオッチ市場全体では、いまだにセイコーやシチズンが大きな市場シェアを保持していたため、その奪取が目標にされた。そしてその後の数年間は、『Gショック』の日本市場での流行が大きく貢献して、カシオウオッチ全体の市場シェアは拡大することになるのである。その大きな成果には、「リストロマン活動」という組織戦略が寄与したものと見られる。
10.『Gショック』のマーケティング戦略
1983年に発売してから約10年が経過しようとしていた頃、1990年代の中盤頃には、『Gショック』は日本の若者の心をつかみ、ファン層の幅を広げていった。それは流行とかブームという言葉にふさわしいものであった。
本来、『Gショック』は大きさから言えば男性用のウオッチであるが、女性が身に付けることも多くなった。その機会をとらえて、『ベイビーG』という女性用の小型ウオッチが発売された。さらには若者だけでなく、年齢的に上の、大人用の『Gショック』も発売された。こうして製品ラインを充実していく中で、『Gショック』は一つのブランドとして完全に確立したのである。日本市場での流行は、アメリカでの流行という追い風があったとは言え、カシオが地道に取り組んできたマーケティング戦略の成果であった。次々に発売された話題性のある新製品、活動性を前面に出した広告やプロモーション、各種キャンペーン、流通戦略、組織戦略などが一体となって機能した結果だと見られる。
また『Gショック』というブランドが確立したことは、カシオの参入当初のように、低価格化をしなくてもよいという効果を生んだ。『Gショック』は、1万5千円ほどを中心価格帯としているが、これはカシオの大量生産能力から見れば、相当の利益が見込める価格である。かつてのように、過激な価格競争を行う必要がないのである。
またカシオのマーケティング戦略の中で、またリストロマン活動の中で、最も重視されてきたのが、『Gショック』のイメージづくりである。本来的には『Gショック』は、耐衝撃性機能の確保という実用性を重んじた商品であるが、それを若者のストリートファッション・ツールとして訴求したことが拡販に大きく寄与した。そこでは活動的な若者のライフスタイルに合致するファッション商品となっていたのである。アウトドア用として、街に出て遊ぶ若者のライフスタイルにぴったりのツールであることを訴求していった。
いつの時代でも若者は流行の先端を走る年代層であり、若者に受け入れられたことが『Gショック』の成功の鍵であった。そしてマーケティング戦略として、『Gショック』のアイデンティティを頑なに守ったことが、功を奏したものと見られる。
11.スポーツとウオッチ
『Gショック』は、スキー、ビーチでの水泳、ダイビングなどのスポーツシーンに不可欠なウオッチとして訴求され、また消費者に受け入れられていた。しかし、このスポーツとウオッチとの関連は、『Gショック』だけのことではなく、業界全体の取り組みでもあり、それは現在でも変わっていない。というのも、スポーツ競技においてタイムを計測するという、その計時システムにおいて、時計メーカーは長年にわたり、その精度を競ってきたのである。
時代を遡ると、1964年に開催された東京オリンピックにおいて、セイコーがクオーツ時計を活用して、その計時システムを担当したことがある。それ以後、4年ごとに行われるオリンピックの計時システムをどのメーカーが担当するか、その獲得競争が繰り広げられているのである。日本の時計メーカー、スイスの時計メーカーが、こぞって獲得に向けて活動を強めるのである。オリンピックなどのスポーツ大会で、計時を担当するメーカー名やブランド名がテレビなどに映し出されれば、その広告効果は絶大なものがあるという事情があるからであり、それは今でも変わっていない。
また各メーカーは、各種のスポーツ競技に冠大会として協賛することが増えていった。国内ではかつてのセイコーのテニス、シチズンのマラソン、卓球、そしてカシオも自動車レースやマラソンに協賛してPR活動を強めていた。またスイスの各ブランドメーカーも、世界の冒険家に協賛し、また各種スポーツに参加するようになっていった。
こうしたこともあって、ウオッチは人々のスポーツシーンに欠かせないツールになっている。ダイバーウオッチタイプのものが一つの分野を形成していることからもそのことは理解できる。そして『Gショック』も耐衝撃性と防水性などを備えたタフなウオッチとして、スポーツシーンに必要不可欠なツールとして活用されてきた。
ウオッチは、実際のスポーツシーンに使われているが、一方でスポーティなイメージが、拡販のためのマーケティング戦略において打ち出されてきた。各メーカーのキャンペーンにおいてもスポーティで活動的なイメージが訴求されてきた。それがウオッチの需要を盛り上げているのである。『Gショック』においても、その広告などでスポーティなイメージづくりが行われてきており、重要なマーケティング戦略上のイメージ要素となっている。
12.流行の落ち着きと今後の戦略
90年代は大きなブームを作り上げてきた『Gショック』であるが、2000年を過ぎてやや下火を迎えている。カシオの時計事業においては、電波を受信して完全に時間を刻むことのできる電波ウオッチを発売するなど、新しい技術的試みが行われている。また、新しい分野であるデジタルカメラにも取り組まれている。しかし国内の時計市場は成熟化し、またスイスのブランドウオッチが劣勢を挽回しているようにも見える。
しかし一方で、『Gショック』ファン、すなわち『Gショック』を愛好する人々の層は依然として根強いものがある。『Gショック』をテーマにした雑誌のムック版がいくつも発行されているのも、『Gショック』のファンが多いことを示している。またカシオからは、テーマをもった、数量限定のタイアップ・アイテムが、『Gショック』ブランドとしていくつも発売されている。そうした限定版は、希少性もあって、ファンの間では高値で売り買いされていると言われる。90年代に確立した『Gショック』ブランドは、現在でも消費者に広く浸透しているのである。
こうした市場性を見ると、今後新たにブームが再来することも考えられる。ウオッチにこだわりをもった人々の間で、耐衝撃性をもったタフな時計として改めてその機能が見直されることも、近未来的にはあるかもしれない。カシオウオッチの代名詞にさえなっているのが『Gショック』であり、その流行の再現も大いに考えられるのである。
13.カシオのウオッチ戦略
電卓と時計を二本柱にしたカシオの扱い商品は、80年代に電子楽器を加え、商品多角化を進めてきた。近年は、電子辞書やデジタルカメラ市場などにも参入している。こうした商品多角化は、カシオが当初からもっていた、エレクトロニクス技術の分野の商品で、かつコンシューマ商品であることが条件となっている。この点については、デジタルウオッチに参入した当初の経営方針から一貫したものとなっている。
カシオの2002年度(3月末日)連結決算内容を概観してみよう。売上高382,154百万円(前期比13.9%減)、営業利益▲10,418百万円、経常利益▲17.824百万円、当期利益▲24,928百万円となっている。他の多くの大企業がそうであったように、デフレ不況という厳しい経営環境の中で、創立以来で最も悪い決算内容となっている。社員数の削減など、リストラ策が採られたとも言われている。しかし、カシオの上場企業としての立ち直りは素早く、2003年度は黒字に転換することが見込まれている。2001年度も黒字を確保しており、赤字となったのは2002年度だけになる見通しだ。
2002年度における時計の売上高は、62,536百万円であった。そして全体の売上高に占める時計部門の構成比率は、16.4%であった。前年度が15.4%であったことを考えると、構成比率はむしろ高まっている。他の扱い商品が低迷する状況の中で、全社的な見地からは、時計の寄与度は高まっているのである。カシオにとって時計という扱い商品が、大きな柱になっていることをうかがわせている。
日本の時計市場は成熟化し、セイコーやシチズンがやや低迷する中で、カシオの時計部門は、むしろ健闘していると見ることができる。その地位を確実に築き上げたのが、『Gショック』の市場での席巻、ヒット商品化なのであった。『Gショック』の拡販によって、カシオが企業としてのヒット商品創造のノウハウを獲得したとも見られる。カシオの時計部門は、今後も社内の大きな柱として、また時計市場を拡大させる製品として、その市場での力量が期待されている。
課題
1. カシオがデジタルウオッチで時計分野に参入した理由は何だと考えられますか。
2. 1983年発売以来、80年代の日本市場において、『Gショック』が売れなかった原因、失敗の原因は何だと考えられますか。
3. 日本市場で『Gショック』が流行した90年代に、あなたがカシオウオッチのマーケターだったと仮定して、当時、どのようなマーケティング戦略を打ち出すべきだと考えますか。具体的に考えてみて下さい。
4. 2008年現在のカシオウオッチをSWOT(強み、弱み、機会、脅威)分析をして下さい。そして、今後のマーケティング戦略はどうあるべきだと考えられますか。
5. あなたがカシオウオッチの商品企画に関わっているとして、今後どのような新製品・新ブランドを企画したいですか。
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