顧客の誕生

砂田好正 2012年3月1日

1.将棋を指さない将棋ファン

 ある日、同業者のK氏と会うことになった。お互いの自宅が近くにあったことも理由の一つであるが、もう一つ、共通の趣味として「将棋」があり、プロ棋士の羽生善治のファンであることが判明したので、会って話をしてみたいと思った。自宅から徒歩10分程度のところにある喫茶店で落ち会った。
 私の記憶が欠落していたのであるが、待ち合わせに来たK氏とは、過去に数回、会っていることが判明した。二人だけの出会いではないが、ある団体旅行に一緒に行くなどして、顔見知りだったのである。K氏は30歳の前半と思われ、早速、二人だけの会話へと発展した。そして、共通の趣味である「将棋」について、話題が及んだ。
 私は、「僕の将棋は7級で、すごく弱いのですよ。碁のほうは、1級なのですがね」と何気なく話していた。するとK氏は、「僕は将棋をやらない将棋ファンです」と言うのである。「将棋を指す」ことを同時に趣味にしていると思っていた私にとっては、意外な言葉だった。
「将棋を指さない将棋観戦を楽しみにしているファンがいても良いと思うのですよ」とK氏は続けた。「羽生善治のファンです。また、コンピュータ将棋には人並み以上に興味があります。先日も将棋会館に行ってプロの将棋を観戦してきました」とのことであった。
その話を受けて私は、「僕も7級ですから、将棋を指す内に入りませんよ。あなたと同じように将棋を指さない将棋ファンと言って良いかもしれません」と語っていた。K氏が熱心な将棋ファンであることは間違いないが、将棋を指さないK氏に対して新鮮な驚きがあった。そして将棋を趣味とする、その楽しみ方の一つをK氏が示唆してくれているように感じた。
「野球をやらない、観戦するたけの野球ファン」「ラジオに出演しない、聴いて楽しむだけのリスナー」と言えば、これらは少しもおかしくない。プロ野球という分野があるように、プロ将棋という分野があるのだから、そしてラジオを聴くだけのリスナーがいるのだから、「観戦するだけの将棋ファン」がいても良いはずだ。そういうファンというのはむしろ現代的なファンのあり方なのではないか、という関心を私にもたらした。

 

2.私の趣味としての音楽

 私の趣味の一つは音楽である。演歌からクラシックまで、どんな音楽をも愛好している。「音楽の雑食家」と自称している。
 5年ほど前、自宅から通うには便利な立地にある、アメリカン・カントリー・ミュージックのライブハウスを見つけた。ほかのライブハウスと同じように、居酒屋でもある。店内には、この分野においては有名な歌手達の写真や、カーボーイハットが飾られている。アメリカンな装飾の店内は、楽しい雰囲気に包まれている。以来、月に3回ほどのペースで、常連として通っている。
 ここで、私の趣味としての音楽との付き合いを少し述べることにする。私が「音楽の雑食家」であることは、すでに述べた。
演歌などの歌謡曲については、スナックなどでカラオケを好んでいた時期がある。唄うのはまったくの素人であるが、自分で言うのもおかしいが、相当上手だし、レパートリーも広い。スナックに通うにつれてレパートリーが広がり、上達したようだ。カラオケで歌謡曲を唄うことが好きなのである。
ジャズのライブハウスに通っていたこともある。そこでもピアノの演奏に合わせて、ジャズの名曲を唄っていたことがある。
 もう一方の聴くほうはどうであろうか。私の小学校の同級生に、ショパン弾きの女性がおり、年に1回はそのリサイタルに行くようにしている。またある地域センターで、毎月クラシックの演奏会があり、それに数年間、友達3人で通っていたこともある。
 コンサートに行くのはそのくらいだが、もちろんCDを購入して聴く分野は幅広い。ここでは曲名や歌手名は披瀝しないが、相当幅広いジャンルをフォローしている。また、テレビやラジオの音楽番組も好きで、気ままにではあっても、頻繁に視聴している。これらのリスナーとしての音楽鑑賞も、広いジャンルにわたっている。「音楽の雑食家」に相応しいものだということを理解していただけるだろう。
 何回か通い、バーボンを飲みながら、カントリーのライブを楽しむにつれ、このアメリカン・カントリーのライブハウスと顧客のことが、少しずつ分かってきた。どういうことかと言うと、一つは60代の男性店主がミュージシャンであり、構成したバンドとともに演奏する回数が多いということである。また、そこに来る顧客は、その大部分に持ち歌があり、店主たちの演奏に合わせ、それを唄うのを楽しみにしているのである。聴いて楽しむだけの、リスナーとしての顧客は、私を含めて数名いるだけであった。
この店における、私の顧客のあり方をひと言で言えば、「リスナー」に徹しているということである。とにかく聴いて、飲んで、楽しんでいるのである。このジャンルの曲を知らないので唄えないということもあるが、この店では、リスナーに徹しているのである。自らの持ち歌を唄うことを楽しみにしている顧客も多い。リスナーに徹している顧客も、私も含めて数名いるのだが、比率からいえば少ない。最初は唄う歌を持たないと居づらい雰囲気もあったが、店のほうもこういう私のような顧客を容認してくれるような雰囲気になっていったのである。

 

3.需要主体としての新しい顧客の誕生

どのようなジャンルの表現者にとっても、その表現発信を受容するという、もう一方の主体がいなければ成立しない。このことは人間の「呼吸」に例えると分かりやすいかもしれない。表現は、「息を吐くこと」であるとすれば、その表現を受容する、すなわち「息を吸うこと」が必要である。
すなわち、スポーツ、演劇、映画、テレビなどの表現は、鑑賞する主体(視聴者)が存在しなければ成立しない。私の造語で言えば、「表現を発信する者」を「供給主体」とすれば、それらの「供給主体の表現を受容する者」、すなわち「需要主体」が必須の存在である。例えば音楽やラジオならば、それを聴く需要主体=リスナーがいなければ成立しない。それは現代においてどのようなことを示唆しているのか。
野球や将棋などは、プロの業界を形成している。そしてそのプロの業界を形成するためには、おカネを出して観戦する人々、すなわちプロの「供給主体」に対する「需要主体」の存在が必要不可欠である。そして、おカネをもらって表現する=発信する「供給主体」と、おカネを払って受容する「需要主体」が分離・分化してきたのが、近代から現代に至る社会的プロセスなのではないか、という考えに至ったのである。
そしてこれまでは、その受身の「需要主体」が軽視されてきたのではないか。「将棋をしない、観戦する」だけのK氏のような存在、すなわち需要主体としての新しい顧客のあり方が、出現・確立されてきたのが現代ではないか。需要主体というものがより重大に認識されつつあるのが現代社会の一面ではないか、と思うのである。
K氏のような、観客としてだけの顧客、「新しい顧客の誕生」が重視されるような時代に我々は生きている。音楽の雑食家である私はと言えば、将棋の観客であるK氏とは違う音楽という分野で、リスナー専門として楽しんでいるのであり、需要主体として存在している。それは「新しい顧客の誕生」と言えるのではないだろうか。
「楽器を演奏しない、唄わない、リスナーとしてだけの音楽ファン」であることは、音楽の歌手や演奏家の表現を成立させる、片方の、重要な担い手である。それは供給主体と同等な、一方の需要主体の重要性を示している。現代という時代は、そういう新たな顧客の姿が、顕著に確立されつつあるのである。
もう一度、カントリー・ミュージックの居酒屋の事例を考えてもらいたい。多くの顧客がギターを抱えてその分野の歌をバンドの演奏に合わせて唄っている。その一方で聴くだけのリスナーとしての顧客が居る。そこには、表現の供給主体と需要主体が同居している様が見て取れる。両者の分離・分化が、完全な形になっていない状態が存在するのである。しかし、以前は自分で歌を唄う供給主体ばかりであったものが最近になって、リスナーとしての需要主体が多く現れているのも事実なのである。ここに「新しい顧客の誕生」というものを感じるのである。
人々の生活に付随する表現を表出する供給主体と、受身の需要主体が分離・分化し、それぞれに独立しているさまを、ここまで見てきた。端的に言えば、明治時代以降の近代から現代に至る過程は、おカネを稼ぐために表現する供給主体と、その表現を、おカネを払って受容する需要主体の分離・独立の過程なのである。

 

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