SNSの可能性

砂田好正 2012年3月1日

1.自己表現の発信の効用

私は、2006年から数年間、ある大学の学生に経営学を教える仕事をしていた。その15回をワンクールとする講義の最後に、学生に向かって「どのような手段でも良いから、表現手段を持ってください」と述べた。そのとき、あるファッショナブルな服を着た女学生は、「自分には表現手段が見当たらない」というような応答をした。私の気持ちとしては、「別に写真を撮るとか、絵を描くとか、文章を書くだけが表現手段ではない。服装のファッションでも、化粧でも、それが他者に向かっていて、自己の精神性に触れるものならば、それが自己表現なのだ。そういう意味での表現手段を持ってもらいたい」という内容を話したかったのである。
 ある50代の知人女性は、写真学校に通って、写真表現を続けている。あるとき彼女は、「写真を撮るようになって、生きる意欲が増してきた」というようなことを語った。実を言うと、私は発表された彼女の写真がとても好きである。素晴らしい作品だと個人的には思っている。また彼女にとっては、それらの写真が自己表現であり、その表現によって、精神的な救済が図られている。自己表現が生活するための意欲を増すことにつながっているのである。
 私個人も例外ではない。私はかつて業界紙の編集記者であったので、文章を書くことを自己表現手段にしている。また、趣味としては歌謡曲をカラオケで唄うという表現手段を持っている。そう言うと冗談のように聞こえるかもしれないが、私にとって歌を唄うことは、趣味とは言え、まぎれもなく自己表現なのである。そして、文章を書くこと、歌を唄うこと、それらの自己表現を発信することによって、自分の精神的救済になっていると思うのだ。
学生たちに私が言いたかったのは、「何でも良いから表現手段をもってもらいたい。それは生きていくうえでの大きな力になり、困難を克服することにつながるかもしれない。精神的救済になり得るのだ」ということであった。

 

2.SNSを始める

2011年6月、私はパソコン上で、ソーシャルネットワークサービス(SNS)の一つであるフェースブック(FB)を活用しはじめた。そのフォーマット上に私自身の基本データを登録し、「友達」を増やしていった。徐々に「友達」は増え、現在、その数100名を超えている。そこに毎日のようにアクセスして、私自身の「近況」や「友達」の「近況」へのコメントを発信している。
このFBへの参加によって、私は、現在における人々の「表現」について、ある種の示唆を得た。すなわち、毎日発信される写真や動画や音声や文字による、「表現」の仕方についての示唆である。
分かったことの一つは、表現の「簡易さ」というものである。FBなどのSNSにおいては、非常に簡易に表現の発信ができるのだ。簡易に、写真や動画や文字による表現が発信され得るのである。
例えば、かつて文字による表現を発信することには、大きな壁があった。パソコンのない時代ならば、原稿を原稿用紙に書き、それを雑誌や書籍に発表するということが必要であった。一つの発信形式として書籍にするには、手書きの原稿を書籍にするのだから、大きな労力が必要であった。自費出版しようとすれば、百万円を超える膨大な経費が必要であった。
写真という表現手段はどうだろうか。展示会などの場所を借り、フィルムに写し紙焼きした写真を発表する必要があった。動画を表現手段にする人は、動かない写真以上の労力を必要としただろう。ところが安価なデジタルカメラの登場や、携帯電話などのカメラ機能によって、より簡易に発信できるのだ。そして、その発信する場として、FBなどのSNSがあり、この場に、簡易に作品を発表することができるのだ。誰でもが簡易に、あるときは文章を書いて、あるときは写真や動画を撮影し、その表現を発信できる時代になったのである。発信するために、越えなければならない壁は、以前よりも数段、低くなっている。
現実に、各種のSNSにおいて、人々のそれぞれの自己表現が簡易に、大量に発信され続けている。そこでは自己表現があふれているのである。そして、それらの自己表現を起点にして、コミュニケーション手段としての役割が果たされている。

 

3.日常の断片としての表現

SNSという場においての人々の表現は、「生活の中に、日常的に転がっている断片」だと言って良い。その日常的な表現を、だれでもが簡易に発信できるのが、SNSの表現の特徴なのである。
また、これらのあふれる表現は、すべてが等価なものとして存在する。どの発信された表現が優れ、逆に優れていないとかは重要でなく、どの表現も等価なのである。自己表現として、自己にとって必然的な役割を持っているという意味において、どの表現も等価なのである。その価値を競うことはない。そこでは、自分に合った表現手段が選ばれ、自己表現されているだけなのである。
以前は、表現すること、表現を発信することには、相当に困難な壁が存在した。SNSの場のように、簡易に表現を発信することはできなかった。それが、誰でもが生活の中で、日常の中で、何らかの手段によって簡易に表現できる時代になったのである。情報化の進展によって、SNSの場が提供されたことは、表現の日常化、簡易化を実現しているのであり、その意義は非常に大きなものがある。
 SNSのような場における「表現」というものを、もう少し掘り下げると、「表現」というものは、「人間が生きていくうえで必ず付随するもので、不可欠なもの」「人間が生活していくうえで必ず付随するもので、不可欠なもの」と捉えられると思う。人間が生きているうえで、必然的に持ち得るもの」だと思う。
ここでは、「表現」の拡大概念が可能になっているのだ。それらの表現を僅かに発信し、自然に受け取られている場が、SNSという「表現」の場なのである。
「文筆」「写真・映像の撮影作品」「絵画を描く」も、以前から「表現」とされてきた。「歌唱・演奏」も同様である。「演劇」や「落語の語り」も同様である。「生け花をいける」「お茶をたしなむ」ことも以前から「表現」とされてきたと思う。
スポーツをすることも身体の「表現」である。だとすれば、「囲碁・将棋などのゲームをする」ことも「表現」である。「建物を建てる・インテリアを工夫する」のも、表現である。「服をデザインし、作る」ことも「表現」である。「その日のファッションを考える」のも表現である。「料理をする」ことも表現である。「髪型を工夫する」ことも、「化粧する」ことも「表現」と言ってよいだろう。障害者同士、あるいは難聴者に対する「手話」も「表現」の一つである。この手話には、その動作にある種の美しさを感じることさえある。
表現の拡大概念においては、より生活に密着したもの、日常的な行為も表現として認められるようになっている。日常的に「話すこと」もまぎれもない「表現」なのである。「買い物をする」も一つの表現である。このように現在は、人間の「行為や行動」すべてが「表現」と言ってよいというのが表現の拡大概念として可能だと思うのだ。すなわち、「生きるうえで、生活していくうえで付随する不可欠なものすべて」、「基本的に能動的で、僅かにでも他者に働きかけ、発信するものすべて」が「表現」なのである。
この場合の「発信」とは、必ずしも「発信しているという自覚」を必要としない。生き、生活していれば、何らかの「表現」をしているのである。個人の日常生活の中の一瞬、一瞬が表現に満ちているのである。そのような「表現」の拡大解釈が可能になっているのであり、そのことがSNSの場のコミュニケーションツールとしての可能性ではないかと思う。

 

4.自由な気分の獲得

前節で、「表現」とは、生きるとか生活するとかに付随するすべてのもの、という言い方をした。いわば「表現の拡大概念」を提示したつもりだ。そして多様な「表現」を列記した。このような「表現の拡大概念」は我々にどのような影響を与えるのであろうか。
私が思うに、現在の表現の特徴は、日常の中の「さりげない表現」と呼べるものなのである。SNSの一般の多くの人々が発信する文字や写真もまた、言うまでもなく、日常生活の断片を「さりげなく」切り取ったものなのである。現代に通底する、表現におけるキーワードが「日常的なさりげなさ」というものなのだ。
 そして、我々は、そうした日常的なさりげない表現の中に、一種の自由感を感じている。その自由感は、実は、「日常的なさりげない表現」に感じる自由感ではなかったか。私には、その自由感の中に、情報化時代に出現したSNSの場の可能性と言うものを感じるのである。特別な人だけが持っていた「表現」というものを、平凡に生活する我々個人の手に取り戻したように感じるのである。
表現とは、他者に対する僅かな働きかけであり、僅かにでも発信するものである。極端な例だが、引きこもりの青年がいても、それは彼・彼女の「生きる」であり、「生活」であり、「引きこもり状態」という、そういう「精神状態や身体行為を僅かに発信する表現」に満ちているのである。
以前は専門家(プロ)に特化されていた「表現」というものを、より広く解釈できるような現在という時代に我々は生きている。そこには、情報機器の発達、SNSなどの新しい発信と受容の場が大きく寄与している。新たな可能性をそこに見つけることができる時代に我々は生きているのだ。
 このように考えてくると、表現は、生きていくうえで必要不可欠なもののように思う。他者に見て、触れてもらうことによって、生きる力を醸成させてくれるものだと思う。そういう意味で、この「表現論」の最後に、「どんな分野の表現でも良いから、表現手段を持って生きてください。表現することを続けてください」と、もう一度述べ、この拙文を終わりにしたい。(了)

 

 

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